【来日記念】『原一男監督との出会い』呉文光           

9月27日に東京神保町アテネフランセで開催されるnew「CINEMA塾」講座6に参加するため、呉文光(ウー・ウェングアン)監督が来日する。前回の中国インディペンデント映画祭のときは残念ながら都合により来日できなかった呉文光だが、今回は『治療』の上映と長時間のディスカッションが予定されており、存分に話が聞けそうだ。彼の弟子の一人である章梦奇(ジャン・モンチー)も来日し、『三人の女性の自画像』の上映とディスカッションも合わせて行われる予定である。

new「CINEMA塾」は、セルフ・ドキュメンタリーの先駆者である原一男監督が企画している講座シリーズである。呉文光は2010年に原監督を北京に招き、原監督の特集上映を行っている。当時、特集上映が行われるにあたって、呉文光はその経緯を語った「原一男監督との出会い」と題する文章を書いた。すこし古い文章ではあるが、来日を記念して今回それを日本語に訳して掲載することにした。呉文光と日本との関わりを知る上でも、なかなか興味深い文章である。

 

私は、予てより原一男監督の作品を知っていた。1991年に私が東京へ行った時、山形国際ドキュメンタリー映画祭が開幕するまで少し暇があったので、毎日小川プロか、山形映画祭の東京事務所に行ってビデオを観ていた。当時の私はドキュメンタリーに飢えていて、どんな映画でも私はそれを糧として腹の中に収めていた。山形映画祭の当時の責任者であった矢野さんは、毎日私にその糧を与えてくれた人である。原監督の『ゆきゆきて、神軍』も矢野さんから手渡された。その時、彼はただ「これ観ます?」と聞いただけで、特に何も言わなかった。で、観たのだが、私の理解としては、頭のおかしな元「皇軍」が、戦後何年も経ってから各地に出向いて、かつての戦友を探し、戦争の罪、そのひとつは兵士を食うという罪だったが、それを明らかにすることを要求していくというものだった。当然、かつての戦友はみな彼の要求を拒否するのだが、彼は諦めず、更には暴力を使ったりする。かつての戦友たちはみな白髪交じりのお爺さんになっていて、彼に自宅の畳の上で押さえつけられたりしていて、それが滑稽であり、また狂気でもある。映画を観終わって、矢野さんにビデオを返したが、彼は私に感想を尋ねることもなく、私にこの監督にはもっと狂って不可思議な作品があるとも言わなかった。

当時、私は小川紳介のドキュメンタリーと出会い、彼の事務所で彼の映画をたくさん観て、彼からドキュメンタリーについての考えを聞いた。私は小川監督という人、そして彼の作品を、自分の道しるべとした。小川作品の熱狂的なファンになり、ドキュメンタリーとはかくあるべきだと考えた。つまり、匕首のように社会の身体や心臓に切り込み、切り開き、暗闇に隠された部分を見るのだと。北京に戻ってからも、頭の中は小川監督の話と、彼の映画に出てくる警察と対峙する農民の姿でいっぱいだった。私が急いで取り掛かった映画は、文革と紅衛兵に関する『私の紅衛兵時代』だった。

矢野さんが原監督の作品を見せてくれた以外、他の日本人は誰も原一男という人やその作品のことを私に話さなかった。当時もし原監督の他の作品、例えば『極私的エロス 恋歌1974』を私に見せる人がいたら、私はきっと「こんなに暴力的でやらしい映画を作るなんて、この監督は頭がおかしいに違いない」と感じただろう。そんなわけで、当時、原監督とはすれ違いとなった。93年の山形映画祭で座談会のようなものがあって、私は原監督のそばに座ることになったのだが、紹介されたときに私の脳裏に浮かんだのは、「ああ、あの頭のおかしい「皇軍」を撮った人か」ということだった。

すれ違って、再びこの人を探したのは17,8年経ってからである。

その頃私は、かつて熱狂していた小川紳介とワイズマンをドキュメンタリーの基準や方向性と捉えなくなっていて、個人的なやり方、セルフ・ドキュメンタリーを試みながら、より多くの可能性や方法を探っていた。はっきり言えば、ドキュメンタリーは社会の心臓を狙うために用意された銃や刀としてだけ存在すべきではないし、社会の現実が多様で微妙なように、映像表現も様々であっていいということだ。それに、ドキュメンタリーを社会的責任だと口々に言う作家や研究者が、実は作品がもたらす旨みを享受しているという、ある種の隠れた危うさも目にしていた。

そのとき、原監督や彼の作品について、再び人と語ることがあり、抱擁したいような気分になった。マーク・ノーネスさんの出現である。彼は日本映画の専門家で、日本の文化と映画の世界に浸かって久しい。彼とは山形で初めて会った。その後彼はアメリカに帰って、ミシガン大学で教授をしている。2007年の冬に私はミシガン大学で上映と講演をしたのだが、終わってから大勢でバーに行ったとき、そこでマークさんと原監督の作品の話になった。マークさんはメガネの奥を輝かせながら、原監督の作品を褒めまくっていた。それから2回、1回は草場地で、もう1回は2009年3月の雲之南映像展でマークさんに会ったのだが、私たちはまた原監督の作品について語り、どうやったら特集上映ができるかを相談した。2009年の10月に山形へ行く前、マークさんから、山形で原監督と会う約束ができたので、特集上映を実現させるための具体的な話をしようというメールが届いた。こうしてマークさんの計画と交渉、コーディネートによって、少しずつ実現したのである。

長年、小川紳介のドキュメンタリーについてばかり話してきたが、ついに我々は原一男のドキュメンタリーについて語り始めるのだ。20年遅かった。本来なら90年代初め、小川作品と一緒に話すべきだった。もしそうなら、真実映像の創作はただの1本道ではなかっただろう。

2009年10月、山形で原監督にお会いした。夜の街角に立つ原監督の髪が真っ黒だった。彼は60歳を過ぎているはずなので、私は夜で暗いからか、髪を染めているためだと思い、「どうしてこんなに髪が黒いんですか」と尋ねたら、原監督は大笑いして「天然です」と答えた。私たちは居酒屋に入って、原監督がお薦めする北海道のお酒を飲み、魚の干物を食べた。話題は自然と小川紳介のことになった。原監督は大きな声で、「私は小川さんという人は尊重しているが、私の映画は反小川だ」と言った。私はこんなストレートに物を言う日本人がいるのかと驚いた。マークさんのほうを振り返ると、彼は無言で微笑んでいた。

小川さんを尊重するが、映画は反小川。私は前者に非常に同感だが、後者には非常に興味がある。もし小川さんの映画が直接社会の子宮に飛びかかるものだとしたら、原監督のカメラが向かうのは人の子宮だ。社会の子宮で人を見るか、人の子宮で社会を見るか。さて、その違いや如何に。

 

呉文光(ウー・ウェングアン)

1956年雲南省昆明市生まれ。85年にテレビ局に入り、記者と編集を担当。88年からインディペンデント・ドキュメンタリーの制作を始める。これまでの主な作品は『流浪北京』(90)『私の紅衛兵時代』(93)『四海我家』(95)『江湖』(99)『ファック・シネマ』(05)『治療』(10)など。今回、この文章を掲載するにあたって連絡を取ったところ、「今読み返すとすごく浅いけど、”原監督との出会い”には違いないから、まあいいか」と言っていた。

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呉文光